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ブッダの智慧 |
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ゴータマ・ブッダ | ゴータマ・ブッダ(釈尊)に始まる仏教思想の展開は、二千五百年の歴史を通じて、あまりにも多種多様な面を生み、とりわけ繁雑な教義学は、現代人の学ぶ意欲を遠ざけることとなった。ことに宗派の宗学が精緻を加えてきた日本仏教の場合、開山(祖師)の偉徳は讃えられても、ブッダの生涯とその教えが何であったか、広く知らされる努力が払われなかったのは残念なことである…筆者はブッダを求道者と把え、その後の仏教を「道」の体系として究明する…求道者ブッダは我々に何を説こうとしたのであろうか。それは「われわれ一人残らず求道者となり、真実の自己たれ」ということであった…ブッダの場合には否定語とならんで肯定語によってさとりの境地あるいは実践徳目を説かれた…人間いかに生きるべきかを求め続けていたからであろう。[ 本文 ] |
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歎異抄 |
親鸞が語るのは信仰のパラドックスである。この世に秩序を与えるのは道徳である。道徳の立場に立つ限り、善は悪より価値が上である。したがって、善人は悪人より極楽へ行く可能性が多いと思うのは常識である。しかし親鸞はそういう常識を否定する。悪人のほうが善人よりはるかに救済の可能性が高いという。しかし…このパラドックスの中にこそ、元来信仰というものの秘密があることは確かであろう…弥陀の本願はパラドクス中のパラドクス、逆説中の逆説である。悪人こそかの阿弥陀の衆生救済の選民だというのである。[ 本文 ] 梅原猛さんの著作はいづれも論旨明快で日常語を使っているから、門外漢にも理解しやすいんです。仏教の研究者でもある著者の導きで深い信仰の書である歎異抄の本質へ旅をしましょう。[ カオル ] |
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歎異抄 |
○ 弥陀の本願には、老少善悪の人をえらばれず、ただ信心を要とすと知るべし。そのゆえは、罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。 ○ 善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや。 ○ 親鸞は父母のためとて、一返にても念仏申したること、いまださふらはず。 ○ たとへばひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべしとおほせさふらひしとき…[ 本文 ] 「歎異抄」は親鸞聖人(浄土真宗の開祖)お言葉の記録。信仰の深さと明快さと分かりやすさにおいて最高峰の仏教書です。[ カオル ] |
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仏陀のおしえ | 本書は昭和八年に刊行された「現代人の仏教概論」を改題再刊したものである。いわゆる十五年戦争を数年後に控えた社会的にも思想的にも重苦しい予感が日本全体を覆っていたときであった。早くも国の方向を予知してそれに迎合する論陣を張る人々もなくはなかったのである。この中にあって右に偏せず左に走らず真に自由で中正な立場をとることがいかに困難なことであるか…本書はそのような時代における仏教が、友松円諦先生という柔軟な自由思想家が、仏教の根底からその思潮と実践を見直した書である…著者の態度はきわめて正統的で時には保守的でさえある…全体を序論・仏陀論・達磨論・僧伽論とし、二千五百年の伝統ある仏教を再び世に活かすことは知と情と意を合わせえた不抜の人によってのみ始めて可能である。 【金岡秀友】 |
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法句経 |
この経は釈尊が平素口癖にいわれた小句をもとにして多くの原始経典から釈尊滅後余り遠からぬ時代に編纂されたものらしい。 ○ 他人(ひと)の邪曲(よこしま)を観るなかれ 他人のこれを作(な)し かれの何を作さざるを観るなかれ ただおのれの 何を作し何を作さざりしを想うべし○ 旅にゆきて 自己にまさり はた 自己にひとしきひとに 逢うことなくば むしろ独り行くことに 心を固めよ おろかなるものを 伴侶(とも)とすべきにあらず。○ ありとあらゆる 悪を作さず ありとあらゆる 善きことは 身をもって行い おのれのこころを 清めんこそ 諸仏の教えなり○ おのれこそ おのれの救主(あるじ) おのれこそ おのれの帰依(よるべ) さればまこと 商侶(しょうりょ)の 良き馬をととのうるがごとく おのれを制(ととの)えよ[ 本文 ] |
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阿含経入門 |
友松円諦(ともまつえんだい)先生は昭和九年十月NHKから「阿含経(あごんきょう)」を講義された。その講義録が本書である…先生はまだ四十になっておられなかった「釈尊に帰れ」と、仏教の原点に立ち返って仏教の流れの中の一貫性を問題視し、その使命感が見事な語り口となった 【金岡秀友】 阿含経は頭の中の世界を描いたものではなくして、この大地を釈尊が親しく歩まれた足跡の記録である。その現実の大地には私たちも等しくいま立っているのである…阿含経は人間釈尊の生きた記録であるがゆえに、今日のような差し迫った時代人には、ことのほかたつとい文字なのだ。この社会にせつない嘆息をつけばつくほど、同じ嘆息から解脱された釈尊の足跡が、見失ってはならないものとして、わたしたちの目に浮かび上がってくるのである。 [ 本文 ] |
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ブッダのことば―スッタニパータ |
○生まれによって賤しき人となるのではない。生まれによってバラモン(聖者:貴山)となるのではない。行為によって賤しき人ともバラモンともなる。○敵意ある者どもの間にあって敵意なく、暴力を用いる者どもの間にあって心穏やかに、執着する者どもの間にあって執着しない人、彼らをバラモンと呼ぶ。○他人を欺いてはならない。他人を軽んじてはならない。他人に苦痛を与えることを望んではならない。○母が己が一人子を命を賭けて護るように、一切の生きとし生けるものに対して無量の慈しみの心を起こすべし。全世界に対して無量の慈しみの心を起こすべし。○人が生まれたときには実に口の中に斧が生じている。愚者は悪口を言って、その斧で自分を切り裂くのである。[ 本文 ] 釈尊の説法を直接伝承し記録された最古の聖典。人間らしく生きる道が説かれています。中国語を経ずにインド語から直訳。[ カオル ] |
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ブッダの真理のことば感興のことば |
○ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に従う。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に従う。○「その報いはわたしには来ないだろう」と思って、悪を軽んずるな。水が一滴ずつ滴り落ちるならば、大きな水瓶でもみたされるのである。愚かな人々は、すこしづつでも悪をなすならば、やがて災いにみたされるのである。○他人の過去を見るなかれ。ただ自分のそれが正しかったか正しくなかったかを善く反省せよ。[ 本文 ] 人間そのものへの深い反省や生活指針が簡潔な詩句に。[ カオル ] |
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ブッダ神々との対話―サンユッタ・ニカーヤ1 |
○世には四つの光明がある。昼には太陽が輝き、夜には月が照らし、火は昼夜にあちこちで照らす。正覚者(ブッタ)は熱しかがやくものうちで最上の者である、これは無上の(これ以上はない)光である。○世間における諸々の美麗なるものが欲望の対象なのではない。むしろ欲望は人間の思いと欲情である…怒りを捨てよ。慢心を除け。いかなる束縛をも超越せよ。○だれに罪過がないであろうか。だれに道から外れる過失がないであろうか。だれが迷妄に陥らなかったであろうか。○身について慎むのは善い。ことばについて慎むのは善い、心について慎むのは善い。あらゆることについて慎むのは善いことである。あらゆることについて慎んで恥じる人は「まもる人」とよばれる。[ 本文 ] ブッダが神々と交わす対話の中に人間の真実を見ます。[ カオル ] |
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ブッダ悪魔との対話―サンユッタ・ニカーヤ2 |
○わたしは、天界のきずなであろうとも、人間のきずなであろうとも、すべてのきずなから解き放たれている。修行僧たちよ。そなたらも、天界のきずなであろうとも、すべてのきずなから解き放たれている。多くの人々の利益のために、多くの人々の幸せのために、世間の人々をあわれむために、神々及び人間の利益のために、幸せのために、遍歴をなせ。一つの道を二人で行くな。修行僧たちよ。始めもみごとであり、中間もみごとであり、終わりもみごとであり、意義があり、文句も立派である教えを説け。完全で清らかな清浄業を顕示せよ。○われらは、何物をも持っていないが、さあ、大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜びを食むものとなろう。[ 本文 ] 悪魔や尼僧、バラモン、在俗信者たちとの対話に、遥かな昔、貧乏、病、死、戦争、煩悩にうちひしがれた人々の苦しみを救う。[ カオル ] |
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仏弟子の告白―テーラガーター |
○他の人々が高く翔んでいるときは落ち着け。他の人々が落ち着いているときは高く翔べ。○智慧のある人はたとえ財産を失っても生きて行ける。しかし智慧をもっていなければ、たとえ財産のある人でも実は生きてはいないのである。○尊敬をうけていても、また尊敬されていなくても、どちらであろうとも、つとめはげんで生活するものは、精神の安定がゆらぐことがない。○学識あるものが、その学識を誇ることによって、学識の劣ったものを軽んずるのは、灯火を持っている盲人のようなものだと、わたしにはおもわれる。[ 本文 ] 仏弟子たちが自分の煩悶、悪魔の誘惑、救いへの希望、努力と挫折、ついにブッダに帰依して安住を得た喜びを語ります。[ カオル ] |
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尼僧の告白 ― テーリーガーター |
○若き尼よ。幸せに眠れ−そなたの作った衣を身にまとったまま。そなたの欲情は静まっている−瓶の中の枯れ葉のように。○家を捨てて出家し、子と家畜と愛するものを捨て、貪りと怒りを捨て、無明を除き、妄執を根絶して、私の心は静まり安らぎに帰しています。○ああ、あなたはわが胸に刺さっている見難い矢を抜いて下さいました。悲しみに打ちひしがれている私のために娘の死という悲しみを除いて下さいました。いまや私は矢を抜き取られて、妄執のないものとなり、円かな安らぎを得ました。[ 本文 ] 愛憎に苦しみ、醜老・孤独にさいなまされたあげくにブッダに帰依して、真摯な修行によって解脱しえた女性たちの喜びは大きい。[ カオル ] |
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ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経 |
○わが歳は熟した。わが余命はいくばくもない。汝らを捨てて私は行くであろう。わたしは自己に帰依することをなしとげた。汝ら修行僧たちは、怠ることなく、よく気をつけて、よく戒めをたもて。その思いをよく定め統一して、おのが心をしっかりとまもれ。この教説と戒律とにつとめはげむ人は、生れを繰り返す輪廻をすてて、苦しみも終滅するであろう。○今でも、またわたしの死後でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、彼等はわが修行僧として最高の境地にいるであろう。○諸々の事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい。[ 本文 ] 死を覚悟したブッダが故郷への旅に出て道中で語る遺言。[ カオル ] |
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般若心経 |
○私どもの意識というものは、空間的には無限の宇宙を抱き込むだけの広さがあり、時間的には人類が発生する前の歴史まで考える。時間的にも空間的にも無限の広さを持っているのが、私どもの意識の本質です。 ○禅宗でも、自分の力だけで人格が完成するなどとはいわない。自力を棄てて、自我を棄てて、無心に無念になる、自分の持っている本性を発揮することが禅。人格はこれから完成するのではなく、生まれた時に完成しているのだとわかる。だから『衆生本来仏なり』といわれる。[ 本文 ] 山田無門さんは花園大学学長、臨済宗妙心寺派管長を勤められた禅宗の高僧。般若心経をよみつつ仏教を語ります。禅宗というと『なぞの問答』という印象もありますが、この本は理路整然としていながら理屈っぽくないのです。般若心経262文字にぎっしりと詰め込まれている仏教専門用語も、『菩薩とは、自分は後回しにしても、まず他の人を幸福にしてあげようと誓う人』というように、次から次へと解き明かされてゆきます。[ カオル ] |
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法華経 上 | @鳩摩羅什作の漢文「妙法蓮華経」、Aその読み下し文、Bサンスクリット原典からの分かりやすい現代語訳、の三種を併記し、詳細な注釈が付されている。現代語訳の部分だけを物語として通して読んでもいい。法華経は大乗仏教の根本思想を表す諸経の王といわれ、法華経に始まる仏教用語も多い。一乗妙法(いちじょうみょうほう)、諸法実相(しょほうじっそう)、十如是(じゅうにょぜ)、久遠実成(くおんじつじょ)、不惜身命(ふじゃくしんみょう)、竜女成仏(りゅうじょじょうぶつ)、焼身供養(しょうしんくよう)、一心称名(いっしんんしょうみょう)、などなど。三車火宅(さんしゃかたく)のたとえ、衣裏宝珠(いりほうじゅ)のたとえ、良医治子(りょういじし)のたとえのように劇的な例え話も盛り沢山。宮沢賢治は熱心な法華経の行者でその作品の多くは法華経思想の具現化。困った時の「ネンピカンノンリキ(念彼観音力)」も第二五章の観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん)。[ カオル ] 中巻 下巻 |
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ミリンダ王―仏教に帰依したギリシャ人 | 紀元前二世紀の中頃、インド西北部(今のパキスタン・パンジャーブ州など)を中心に広大な地域を支配していたギリシャ人のミリンダ王(メナンドロス)と当時の仏教教団の優れた指導者ナーガセーナ長老との間に、仏教の教理思想の根本をめぐって鋭い対話討論が交わされた。それはギリシャ思想とインド仏教思想の対決でもあった。仏教の重要かつ基本的な教理思想について、ミリンダ王がギリシャ的発想や思考に基づいて鋭く質問するのに応えて、ナーガセーナ長老がインド的思惟を背景にして、仏教の立場から多くの適切な比喩を交えながら誠実に応答教示したという。その結果、王は仏教に帰依したという大変ユニークな記録である。[ 本文 ] |
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維摩経 改版 | 本経ほどドラマ的な手法を駆使して、次ぎ次ぎに物語を進め、華麗な場面を展開する経典は他に例を見ない。その間に幾多のエピソードがちりばめられ、そのことによって大乗の根底である「空(くう)」の思想がいやがうえにも深められてゆく。しかもこのドラマに登場する主役は、仏陀ではなく、一介の在俗の人、維摩居士(ゆいまこじ)である…仏陀はこの経ではあまり説法することがなく、維摩の縦横の弁舌がこの経の本体で、それがそのまま仏意にかない…維摩居士は大富豪であるが、その悟境はすこぶる深く、仏陀もかれを菩薩と称する。[ 本文 ] 出家者僧侶であろうと、在家信徒であろうと、信仰として仏教に接していくには何の相違もないという、一般の在家信徒にとっては痛快なお話。日本史に登場する最も有名な在家信徒は聖徳太子。[ カオル ] |
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仏説浄土三部経 | 「仏説無量壽経」:阿弥陀如来の四十八願、人類の罪と救済 「仏説観無量壽経」:王舎城の悲劇(親殺し王子物語)、浄土往生 「仏説阿弥陀経」:美しく麗しい極楽賛歌 時代に即応した表現をとり、真実の教えが現代の一人でも多くの人に正しく伝わるように…専門用語は避け、やむを得ない場合は脚注…解釈の別れる場合は訳注(浄土眞宗本願寺派教学研究所刊)。[ 本文 ] どんな罪深い人も悩み多き人も(つまりあなたのことです)、おさめとって捨てず、極楽浄土へ導いてくださる阿弥陀如来の誓願を説く浄土教(浄土宗、浄土眞宗、時宗など)の根本聖典です。誤解されがちな「他力本願」の本来の正しい意味を理解できます。親鸞・法然・一遍聖人たちの教えに惹かれる方は歎異抄とともに必読。[ カオル ] |
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